mnavi Interview

Vol.24:ピアニスターHIROSHI 子供の頃からやっていた2曲同時演奏や、明るい曲を暗く弾くといった遊びを「芸」に転換

派手な衣装を身にまとい、左右の手で違う曲を同時に演奏したり、しりとり順に曲名を並べたメドレーをその場でアレンジして弾いたりという、ユニークな特技を持つエンターテイナーとして華々しい活動を展開するピアニスターHIROSHI。クラシックからロック、ポップス、ジャズなど、演奏家として幅広いジャンルの音楽に精通しているばかりでなく、作曲家・アレンジャーとしても長いキャリアを誇り、ピアノ曲として書いた代表曲「ごめんね・・・」は、作詞家・山川啓介が詩を寄せて、米良美一や伊藤ゆかり、安田祥子といったさまざまな歌手が取り上げている。さらには音楽教育者として長年に渡って活動し、雑誌に連載記事を寄せるなど、文字通り八面六臂の活躍ぶりを見せている。今回は、彼の音楽的背景やローランド製品との意外な関係について話を聞いた。

幼少の頃より、ピアノと戯れつつ
今日に至るまでのキャラクターを確立

─ HIROSHIさんは、1980年代に"ピアニスターHIROSHI"としてデビューした当時から、右手と左手で違う曲を同時に演奏したり、派手な衣装で風変わりなキャラクターを演出したりして、それまでにはなかったピアノのエンターテインメントを打ち出していましたが、どのような背景を持った方なのか、個人的にも気になっていたんです。

HIROSHI(以下、H):デビューというのは、テレビに露出した時のことだろうと思いますが、僕が何かしら音楽の仕事をしてギャラを頂戴するようになったのは、大学(東京藝術大学)2年の時に音楽雑誌に原稿を書くようになったのがきっかけでした。その後はライター稼業をやったり、既存の曲をアレンジした本もたくさん出したり、大学を卒業した後はセミナー活動や楽器のデモンストレーターなどをやったりしてたどり着いたのが、ピアニスターHIROSHIだったんです。

─ ピアノは子供の頃から習っていたのですか?

H:習い始めたのは5歳ですが、それまでにも、外を歩いている時に近所からピアノを弾いている音が聞こえてくると、僕はそれに魅せられて、その家に上がり込んで、耳で覚えた曲を弾かせてもらっていたらしいんです。それで、近所に申し訳ないと思った僕の親が、隣町のピアノ教室に入れてくれたんです。絶対音感もいつどうやって身につけたか分からないんですが、気がついたらピアノが「ド」と言っているとしか思えないんですよ。みんなが「ヘ長調のド」だと思っている音も、僕には「ファ」としか聞こえない。そんな調子で、ピアノと戯れつつ今日に至るというのが、一番簡潔なプロフィールでございます(笑)。

─ その教室にはいつまで通っていたのですか。

H:小学校を卒業する頃までですね。僕は怠け者で、練習しなきゃ弾けないような曲は好きではなかったんです。課題曲が初見で弾けるうちは良かったんですが、ショパンの「英雄ポロネーズ」みたいに練習の必要な曲が課題で出るようになって、ちょっと面倒だなと思っていたんですよね。それで、耳にしたポピュラー・ミュージックを弾いているほうが楽しいと思って方向転換したんです。クラシックも家では勝手に弾いていましたが、中学から高校にかけてはロック系の音楽を主にやっていました。

─ その頃のロックというと、ディープ・パープルとか。

H:ええ。ディープ・パープルとかレッド・ツェッペリン、リッチー・ブラックモアズ・レインボーなんかの曲をやっていましたね。高校が男子校でキーボード・プレイヤーがいなくて、文化祭ではバンドを3つ掛け持ちしていたんですよ。1つがパープル、1つがツェッペリン、もう1つがジェネシスやウィッシュボーン・アッシュなどの音楽をやるバンドでした。あとはデヴィッド・ボウイの音楽もずいぶんやりましたね。

─ デヴィッド・ボウイというのは、今のHIROSHIさんとキャラクター的にかぶる部分があるような気がしますね。

H:ああ、自分の中で一番影響を受けたエンターテイナーは、クイーンが初来日した時に観たフレディ・マーキュリーと、それからデヴィッド・ボウイですからね。クイーンの公演では、フレディが内掛けを羽織って出てきて、ああ、何て素晴らしいんだろうと思ったんですね。今日着ている服も、もともと着物だったもので、フレディの姿を観た時に、ああ、こういう発想もあるんだなと思ったのが影響しています。

─ なるほど。

H:あと、デヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』というアルバムがすごく好きだったんです。彼の淫靡な姿も好きでしたけれども、ピアノが大フィーチャーされているこのアルバムは、音楽的にすごいなと思いました。

高校時代はロック・バンド三昧!
大学は、東京藝大に進学!

─ ロックをやっていたHIROSHIさんが、最終学歴である東京藝術大学楽理科に入ったのはなぜですか。

H:僕が通っていたのは進学校でしたが、僕はロック・バンドしかやっていなかったので、成績はメチャクチャでした(笑)。でも、そのままロック・ミュージシャンになるのもちょっとためらいがあって、大学を受けなきゃならないとなった時に、周りが東大を目指しているから、藝大だったら格好がつくなという......(笑)。とても不純な動機で藝大を受けたんです。

─ でも、そのためのレッスンを受けていたわけじゃないんですよね。

H:受験のためのレッスンを受け始めたのは、高校2年の終わりからです(笑)。レッスンをお願いした先生からは、「今からですかぁ。普通、最低3年は準備するんですけど」とか言われて(笑)。僕も、人生はそんなに甘くないからどうせ落ちるだろう、そうしたらアルバイトをしてお金を貯めて、バークリー音楽大学へ行ってジャズを勉強して......。そういう人生も楽しいなあと思っていたんですね。ところが、なぜか受かってしまって(笑)。

─ それで、2年生の頃から雑誌の仕事を始めて、学校の勉強は大丈夫だったんですか。

H:お恥ずかしい話で、学部を卒業するのに6年かかりました(笑)。

─ 仕方ありませんよね。それで、音楽の仕事は他にもいろいろとやっていたのですか。

H:ええ。ひょんなきっかけで5人ぐらいの方にシャンソンの指導をしていたこともあります。そんなふうに長年の間にいろいろやっていたおかげで、覚えた曲が多いのは確かですね。

─ その経験は、違う曲の同時演奏や、曲のタイトルをしりとり方式でつなげてその場でメドレーにする"しりとりリクエスト"といった、HIROSHIさんの特技にも貢献しているんでしょうね。

H:そうですね。2曲同時演奏や、明るい曲を暗く弾くといった遊びは子供の頃からやっていて、ある程度音楽センスがあれば誰でもできるだろうと思っていたんですが、意外にそうでもないというのが分かって、そういう芸を前面に出したコンサートをやるようになったんです。でも、"ピアニスターHIROSHI"と名乗り始めたのはテレビに出るようになってからのことで、それまでは"不思議ピアニスト"とか呼ばれていました。あるコンサートの打ち上げで、「楽しみに来てくれって言っても堅苦しい感覚を与えるのは、"ピアニスト"っていう名前がよくないのかねえ」って僕が言ったら、マネージャーが、「それじゃあ、ピアニスターとか?ハッハッハッ」って言うんで、「あっ、それにしよう」っていう話になったんですよ(笑)。